時代は更にさかのぼり、遂にASCIIから「Yoのけそうぶみ」である。1982年〜87年まで連載されていたので、これを見て懐かしいと思うのはかなりのオジさんですね(笑)ASCIIのTBN(Tiny Basic Newsletter)のコーナーで百合香さんの「マイコン私情」に引き続き女性のエッセイ/日記的に毎月1ページずつ連載されていたものです。そうこの当時のASCIIを見てもまだ「パソコン」と言う言葉が無く「マイコン」と呼ばれていました。
正確には「マイクロコンピュータ」の略なのですが、「マイ(私の)コンピュータ」と呼びたい時代でした。マイコンを持っていても世間からは「そんなオモチャみたいなので何ができるの?」と言われてました。ただこの時代はまだ色々なメーカーがそれぞれのコンセプトでマイコンを作っていて、海外のマイコンも輸入されてマニアックな活気に満ちていたように思います。
「Yoのけそうぶみ」でも将来のマイコン像について考えていたりしますが、中央に巨大なコンピュータが必要と考えていたりして、現在のようなインターネットは当時は夢にも思わなかったです。今やパソコンはネットに接続する目的で使われている事が一番多いのでは無いでしょうか。でもこの本を読んでいると遠い昔に心が戻るようで、当時のワクワクした気持ちがよみがえります!Yoさんも現在は旦那様とお二人で
ソフトハウスをされているようです。あとこの本も
復刊ドットコムに出ているようですね。
次に「ASCII」の方に行ってみましょう。画像もあるので興味がある方だけ続きをどうぞ。
1981年の7月号の「ASCII」です。なぜ取ってあるかと言うとこの年の大学祭にクラスの有志でこの号にあるネットワーク「PLANET」を展示しようとした思い出があるからです。先にも書きましたが当時はまだマイコンでネットワークなんて一般にはまだ考えもしない時代でした。その中で京都大学マイコンクラブ(KMC)が開発した電流ループと光ファイバで実現され、接続されたマイコン間でゲームや通信ができるのは画期的に思えたものです。そこでこのASCIIに書かれているハードをプリント基板を焼いて電源も作りトライしたのです。展示はSF研の展示室を借りたのですが、結果としては展示は完全には動作せず失敗でした。2台間だとうまく通信できるのに、3台目が入ってくると動作しなかったのです。集められた各自のマイコン(PC-8001やLV3)は単なるゲームマシンと化したのでありました(笑)
ゲームと言えばこの号にもガンダムゲームが載っていました。ちょうど映画「ガンダムII・めぐりあい宇宙」がロードショーされていた時でした。で右がそのゲーム画面。キャラクタで作られたザクやドムやドップが相手です。もう完全にアスキーアートの世界ですね(笑) でもまあ当時はこれがザクに見えたんです。アスキーアートが少し得意だった私はキャラを入れ替えて仲間内では好評を得ていました。当時はゲームテープ(カセットテープです)が3000円くらいで売ってもいましたが、ゲームと言えばASCIIに載っているBASICやマシン語のバイナリデータをそれぞれ入力が得意な友人が入力して研究室とかで合体させる事がメインでした。
当時私はPC-8001のユーザでした。定価168000円もしたんですよねえ。友人の中には日立のベーシックマスターLevel3を持っていた奴もいました。Level3って究極の8ビットCPUと呼ばれていた6809搭載だったんですがその後普通の16ビットCPUのマシン(PC-9801の事)に駆逐されてしまうのでした(笑)海外のパソコンはコモドールのVIC1001とかTRS-80とかもありましたが、やはりあこがれは「アップル][」でしょうか。高価でした…40万円オーバーだったのでとても学生の買えるマイコンではありませんでした。ただ怪しい互換マシンで「オレンジ」なんかはありました。パチもんですね(^^;
何はともあれ当時は漢字・ひらがなも使えないし値段も高いしおもちゃのようなマイコンを所有して、でも夢だけはあったような気がします。その夢は少しは実現できたんだろうか?まだ遅くは無いかも。少しでも夢の実現に向けて努力しましょうか。
最初に買ったマイコンピュータはPC-8001でしたが、最初にBASICでプログラミングをしたのは大学のマイコンルームにあったコモドールのPET-2001でした。これも電卓みたいなキーボードでしたが味がある良いマシンでした。最初にPET-2001を触ってから10年以上過ぎて同じコモドールのAmiga/2000のオーナーになったのも何だか縁があったのかもしれません。Amiga/2000は捨てられなくてまだ事務所の棚にあったりします。そのうちまた灯を入れてあげる日が来るかも。その時はクラシックカーならぬクラシックマイコンかも(笑)以上じじいの昔話でした。